鹿児島のことをもっと深く知ろうと
また、
先祖の方々がどんな生き方をしたから、
今の僕たちは生活できているのか感じようと
行ってきました。😊
知覧特攻平和会館は4回目の訪問になります。
一度目は高校生の頃だったかな?
太平洋戦争のことなんて歴史の授業でかじったほどで、内容はさっぱりな身でしたが、
行くと同い年の特攻隊の遺書に涙したのを覚えています。
あれから、今回で4回目。
当時を感じることも然り、しっかり歴史について学ぶことができた機会だったので
ここのブログにてお知らせします。
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神風特攻隊
「神風特攻隊」という言葉があります。
世界的に有名な言葉のようで欧米人からは「KAMIKAZE」で知られているそうです。
これは太平洋戦争の「天下分け目の決戦」と呼ばれる
フィリピンのレイテ島で使われた必死の作戦にて
飛行機に爆薬を乗せ、そのまま相手の戦艦に突撃し、撃沈させる部隊のことを言います。
当時の日本は資源に貧しく、また、相手国(米国)の豊かな資源と兵力に対する大きな差から
この作戦を決行するしかなかったと言われています。
レイテ島を失い、それから、1945年、大きく傾いた戦況へさらに追い打ちをかけられることとなります。
1945年4月1日 米軍 沖縄上陸
南から、1500艦隊と18万の兵にもなる米軍が沖縄へ侵攻してきます。
沖縄は、とられると日本の主要都市への攻撃が容易とされるため
絶対に死守しなくてはならない土地でした。
その知らせを聞き、知覧で訓練していた特攻隊の方々が出撃することになります。
再び、神風特攻隊の作戦が用いられることになります。
知覧基地
知覧基地は本土最南端の基地であり、
沖縄まで片道600㎞。飛行だと2時間~2時間半の距離になります。
故に沖縄戦へ征くための重要基地であり、
全国からこの基地へ兵士さんたちが集まる場所でありました。
ここから402機もの戦闘機が沖縄へ飛んでいきました。
17歳~32歳 総勢1036名
沖縄戦で特攻隊として活躍した兵士さんの数です。
沖縄まで行き着く間、孤独と任務達成の緊張に耐えながら飛んだのだろうと思います。
米軍のグラマン戦闘機による攻撃をかいくぐり、沖縄にいる米軍艦隊の目標を見つけると
「我、突入す」
の電文を残し、一死生還の気概のもと
任務を全うしていきました。
17歳から19歳の少年飛行兵さんたちは、335名
特攻兵の平均年齢は21.6歳でした。
祖先の想い
どんな想いで彼らが任務を全うしていったのか。
知覧特攻平和会館には
特攻隊員の遺影と残した遺書が数多く展示されていて
どんな方がどんな想いをもって飛び立ったのか分かります。
見ると、ほぼ全てが家族へ向けた手紙です。
内容は、感謝の想い。
そして、任務後、家族や祖国が平和に暮らせるようになっていて欲しいという願いでした。
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僕は知覧特攻平和会館へ行って、
今ある生活を見つめ直せたと共に、
本来の人との繋がりや、生きる目的に立ち還れた気がしています。
僕がどんな想いをもったのかここで細かく伝えるよりも
実際に足を運んで知った方がいいと思い、簡単にさせていただきます。
日々現代を生活していると今回感じた想いも次第に薄れていきますが、
僕も度々この地に赴いて、何か感じる機会を今後もつくっていこうと思います。
日本の未来の為に「必死」を選び、
現代社会の基盤をつくった特攻兵さんに感謝していかなくてはなりません。
では!!
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